《感情に説き伏す、麦酒の船出》

満寵の至近距離からの強烈な圧と甘い声に、#name#の心拍数は限界に達していた。ついにこの男に絆されてしまうのか……と、諦めにも似た覚悟を決めた、まさにその時。背後の壁――正確には、隣室との境界にある薄いコンクリートの壁の向こうから。ガッシャァァァァン!!!という、何かが派手に崩れ落ちる凄まじい破壊音と共に、聞き覚えのあるひどくしなびた声が響き渡った。 『……うっ……文若殿……! パンの耳だけ置いて帰るなんて、あんまりだ……!』 「無理。この状況でときめくの、絶対無理!」 完全に酔い狂っている声に、#name#の顔に張り付いていた緊張感は一瞬で消えた。そして、彼女はあっという間にスンッと真顔に戻ってしまう。このマンションの住人たちは、なぜこうも最悪のタイミングで他人のロマンスを物理的に粉砕するのだろうか。しかし今回ばかりは、あの底なしに長い演説男の騒音に感謝しなければならない。満寵がどれほど完璧な『囲い込み』の罠を張り巡らせようと、階下の壁ドンならぬ『壁ドカン』という予測不可能なアクシデントの前には無力だったのだ。 「……#name#殿、待ってくれ! 今のは壁が薄いだけで、私の愛には全く関係が――」 必死に引き止めようとする満寵の腕の下を強引に潜り抜け、#name#は逃げるように彼の家を飛び出した。そのまま廊下を小走りで進んで下へ降り、向かった先は騒音の主である荀攸の部屋。 「荀攸殿! ちょっと静かにして――って、うわっ!?」 勢いよくドアを開けた瞬間、#name#の目に飛び込んできたのは、あまりにも予想外(というか理解不能)な光景だった。 ドアを開けた瞬間に吹き付けてきたのは、熟成された居酒屋の裏路地のような強烈なアルコールの臭いだ。さらに足元には、なぜか花壇のレンガのように美しく整然と並べられた大量の茶色い空き瓶。そしてその狂気の中心で、良い歳をした成人男性が全身をショッキングピンクに染めてだらしなく横たわっている。もはや事件性を疑うレベルの前衛芸術のような光景だった。 「ああ、#name#殿……。文若殿がいなくなったので、彼が残した大量のパンの耳を肴に、一人で反省会をしていたところです……。俺のような単純な男は、耳だけで十分だと言わんばかりのこの仕打ち。これは酷いと……」 #name#の姿を認めるなり、荀攸は無限の愚痴をこぼし始めた。 「……ねぇ。なんでキティちゃん着てるの?」 #name#の至極真っ当なツッコミに対し、荀攸は空のビール瓶を一本大事そうに抱きかかえながら、真っ赤に茹で上がった顔で#name#を見上げた。その瞳はじっとりと潤み、完全に理性が『朝酒』の彼方へと飛んでいる。 「……#name#殿。先ほど、満寵殿のところへ行く貴女の姿を見て……俺の胸は、この空き瓶のように空っぽになりました」 「……」 「俺は、スマートな弁護士でも、有能な不動産屋でもありません。……ビールと、この無表情の白い猫を愛するだけの、情けない男です……っ」 荀攸はセットアップのフードを前に手繰り寄せると、そこに鎮座する、感情が死んだハローキティの顔を#name#に向けて突き出す。そして、自分自身は泣き出しそうな表情を浮かべ、床を這い寄るようにして#name#の足元へとすり寄った。 「……ですが! 俺の愛の持続時間は、先程の演説の比ではありません! 俺を、貴女の専属の話し相手……あるいは酒の肴にしてくれませんか?」 荀攸は#name#を見上げ、これ以上ないほど必死な形相で叫んだ。 「#name#殿。俺と一緒に、このピンクのペアルックを着て……一生、耳を揃えて暮らしましょう!!」 借金取りへの啖呵とパンの耳が混ざったような、前代未聞の泥酔プロポーズ。あまりのシュールさと、すがりつく荀攸の必死すぎる形相に、#name#の顔は赤くなるのを通り越して完全に引き攣っていた。 だが――裾を握りしめている彼の手の熱さだけは、アルコールのせいだけではない、確かな本物の熱を帯びていた。酒臭さとパンの耳の香ばしさ、そしてファンシーなキャラクターが脳内で大渋滞を起こしているこの状況で、どうしてときめくことができるだろうか。しかし彼の瞳は、これまでに見たどんな時よりも真剣で、縋るような切実さに満ちていた。長ったらしい理屈をこね回す普段の彼とは違う、ただただ『自分を選んでほしい』という剥き出しの感情。そのみっともないほどの素直さと、大型犬のような湿度の高い愛情表現が、#name#の胸の奥にある母性本能のスイッチを確実に押してしまっていたのだ。 「……キティちゃん布教党にでも入ってるの? それに、部屋中空き瓶だらけだし、ムードも何もないんだけど」 #name#は眉間に深い皺を寄せながら、呆れたようにため息をついた。 「……ムードなんて、ビールで流し込めばいいんです……。さあ、もっとこちらへ……」 引くほどダサくて、情けなくて、酒臭い。それでも、自分にだけ向けられた真っ直ぐで不器用な熱意に絆され、#name#は彼から差し出されたその『泥酔の船』を、結局無視することは出来なかった。