《論理の刃と甘い狂気》
疲労が泥のように四肢へ沈み込む夜勤明け。#name#を待ち受けていたのは、常にも増して混沌を極めるエントランスの喧騒であった。
「#name#殿、待ちくたびれたぞ。先日の宮崎県産マンゴーの代金、利息二十割で返してもらうと言ったはずだ」
「待たれよ法正殿。今はPayPayポイントのスクラッチチャンス中だ、道を塞ぐのは義に反する!」
「お二人とも落ち着いてください。それより#name#殿、ダブルソフトのレーズンパンについてですが、やはりあれは……」
「……ああ、もう。今日も頭が痛い……」
絶え間なく鼓膜を打つ不協和音に、#name#は頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた。徹夜明けの鉛のように重い身体に、容赦なく浴びせられる男たちの怒声と身勝手な要求。ただでさえ擦り減った#name#の神経は、この異常な空間の中で完全に断線寸前だった。視界が明滅し、耳鳴りが酷くなる。助けを求める声すら喉の奥で干からびていく。もうこのままコンクリートの床に崩れ落ちてしまいたい。思考が麻痺し、そう願って泥濘に足を取られたように立ち尽くす彼女の視界を、不意に冷たい影が覆い隠した。熱を帯びた狂騒を一瞬にして絶対零度へと凍結させるような、圧倒的な『静』の気配。闇のように深く、どこまでも滑らかな漆黒の長髪。微かに鼻腔を掠める、清涼な石鹸の香り。見上げればそこには、冷酷な美貌を隠そうともしない、絶対的な支配者の顔があった。
「……騒がしいですね。皆さん、少し黙っていただけますか?」
荀彧である。見慣れた野暮ったい部屋着姿ではない。隙の無い黒の三つ揃えのスーツを纏った彼は、冬の冷気のように澄み切り、そして刃のように冷ややかな微笑を浮かべていた。
「……荀彧殿か。貴方に用はない、退け」
法正が忌々しげに睨みつけるが、荀彧の笑みは微塵も揺るがない。
「いいえ、用があるのは私の方です。法正殿、貴方が請求している『二十割の利息』。これは法定利息を著しく逸脱した暴利であり、公序良俗に反します。今後、#name#殿への接触を含め、全て私の事務所を通していただきたい。……書面での通告が必要ですか?」
感情を完全に削ぎ落とした、圧倒的な論理の暴力がエントランスに響き渡る。それは、一切の感情や温情を排した、冷徹なまでの事実と根拠の羅列だった。彼が口にする『正論』という名の見えない凶器は、物理的な暴力よりも遥かに重く、的確に相手の急所を抉り、鋭く退路を塞いでいく。そこには普段、パンの耳を片手に微笑む温厚な隣人の面影など微塵もない。ただただ圧倒的な知性と法を操る捕食者としての威圧感が、エントランスの空気を重く支配していた。反論の余地など一ミリも与えない完璧で冷酷な論理展開に、あの口の減らない法正でさえも、舌打ち一つを残して完全な撤退を余儀なくされたのである。
身を引く法正を横目に、荀彧は流れるような動作で荀攸と関羽へと向き直った。
「荀攸殿、貴方の演説は管理規約第十二条の騒音公害に抵触します。関羽殿、ポイントへの執着は結構ですが、他者の通行を妨害するのは『義』ではなく単なる『迷惑行為』です。……#name#殿が疲弊しているのが、貴方方には分からないのですか」
圧倒的な『正しさ』という大義名分を用いた、冷徹な掃討作戦。声を荒らげることもなく、ただ淡々と、冷たい事実と招く結果だけを突きつけて周囲を完全に制圧していく。彼が振りかざす正義の刃はあまりにも正しく、残酷なまでに美しいため、斬り捨てられた者すら己の非を認めて沈黙するほかないのだ。一切の情を挟まないその徹底した掃討劇は、一歩間違えれば狂気へと繋がる危うさを孕んでいた。
一人、また一人と、騒音の主たちは毒気を抜かれたように散り散りになっていく。数分前まで魑魅魍魎が跋扈していたエントランスには、今や嘘のような静寂が落ちていた。
「……すご。荀彧殿、ありがとう。あいつらがこんなに大人しく引き下がるなんて」
「いいえ。貴女の平穏を守るのが、同じフロアに住む者の務めですから。……さあ、ゆっくりお休みください。これからは、誰も貴女を邪魔することはありませんよ」
荀彧は優しく#name#の肩に手を添え、彼女を庇うように自室へと促した。彼女を悩ませる不愉快な害虫たちを完全に駆除し、自分が彼女にとって最も安全で、最も頼りになる唯一の存在であることを、その無防備な心へ骨の髄まで刷り込ませる。それが彼の描いた、完璧にして病的な包囲網の第一歩であった。疑うことを知らない彼女の背を見送る彼の唇に、ひどく甘く、暗い笑みが張り付く。直後、彼は手元の端末を操作した。
荀彧はあらかじめ仕掛けておいた同期システムを通じ、『#name#のスマートフォンにおける、特定の住人たちの着信拒否設定』を遠隔で完了させると、その漆黒の端末を静かにスーツの内ポケットへと滑り込ませた。外部からのノイズを強制的に遮断し、彼女の人間関係という名の『外堀』を、音もなく、しかし確実かつ徹底的に埋め立てていく。他の誰にも彼女を触れさせず、視界に入れさせず、やがては自分という存在なしでは息をすることすらできないように、彼女の世界を歪に作り変えていくのだ。ただ淡々と、事実と根拠だけを積み上げて、彼女の周りの空間を彼自身の漆黒で塗り潰していくその異常な束縛と官能。極上の和三盆のように品良く甘いその男の狂気は、致死量を超えた猛毒となって、気付かぬうちに彼女の生活の根底へと深く、深く回り始めていた。