《踏み込む破滅への一歩》
荀彧による徹底的な『大掃除』から、一週間が経過した。
#name#の日常は、気味が悪いほどに静まり返っていた。疲労困憊で夜勤から帰還しても、エントランスで法正に「おい、借金を返せ」と凄まじい眼光で睨みつけられることはない。ゴミ出しの際、馬岱に「おはよ! 今日も顔色が悪いね、最高!」と無神経極まりない挨拶を投げかけられることもない。深夜一時のコンビニに郭嘉が亡霊のように現れ、死にそうな顔で生命保険のパンフレットを突きつけてくることもなくなった。
「……静かだ」
自室のベッドに倒れ込み、#name#は無機質な天井を仰ぐ。あれほど彼女の日常を無遠慮に侵食していたノイズが、文字通り跡形もなく消え去ったのだ。それは単なる周囲の自粛や遠慮などという、生易しく曖昧なものではない。荀彧が法という名の絶対的な暴力と、隙のない論理を巧みに編み上げて構築した『透明な防壁』が、物理的にも精神的にも、彼女の世界から他者の存在を完全に締め出していた。マンションの奇行種たちは皆、あの黒衣の弁護士が冷徹に突きつけた正論の刃と、その裏に隠された一切の容赦を持たない『社会的制裁の予告』に完全に毒気を抜かれ、今や彼女の半径数メートル以内に立ち入ることすら禁忌としてしまったのだ。
望んでやまなかった平穏。騒音と奇行の一切を排除した、平和なマンションライフ。しかし、現在の#name#を絡め取っているのは安らぎなどではなく、耳の奥が痛むような『静寂という名の耳鳴り』であった。
「……何これ。暇すぎて死にそう」
スマートフォンを確認しても、通知は無慈悲なまでにゼロを示している。満寵からのメッセージすら、あの日を境にパタリと途絶えていた。一度だけ「大丈夫?」とこちらから様子を窺う連絡を入れたが、『荀彧殿から「君の未熟な距離感が#name#殿の精神を著しく摩耗させている」と論理的なご指摘をいただいたので、しばらく頭を冷やすことにするよ』という、見るに堪えない弱腰な返信が届いたきりである。
そう。誰も来ないのだ。
荀彧が構築した『正論の防壁』はあまりにも完璧であり、他の住人たちは#name#という存在に近づくことすら法的に禁じられ、完全に遠巻きにしていた。現在の彼女の周囲には、あの混沌とした賑やかさも、毒を含んだ笑いも、汚部屋の生温かさもない。ただ、真っ白で、無機質で、徹底的に消毒された『無菌室』に隔離されているような錯覚に陥る。
雑菌をすべて死滅させた無菌室は、一見するとこの上なく安全で清浄な空間に思える。しかし、何の刺激もノイズも存在しない絶対的な虚無は、徐々に住人の精神の均衡を蝕んでいく。喜怒哀楽を刺激されることのない平坦な日常は、まるで真綿で首を絞められるかのように、ゆっくりと彼女から生きる活力を奪い去っていた。誰の干渉も受けない自由を手に入れたはずが、気がつけば外界との繋がりをすべて断たれ、たった一人で漆黒の檻の中に幽閉されている。荀彧の用意した『完璧な保護』は、彼女の孤独を極限まで培養するための、残酷で甘い拷問装置だったのだ。
「……ちょっと、やりすぎじゃない?」
窒息しそうな静寂に耐えきれなくなり、#name#はふらふらと自室を飛び出した。サンダルの足音が、コンクリートの廊下にひどく空虚に響く。三階の非常口を抜け、静かに階段を上がる。行き先は、最初から決まっていた。現在のこの狂ったマンションにおいて、唯一『普通に』会話が成立する相手。この完璧すぎる静寂を作り出し、自分を守ってくれたはずの、あの男の元へ。
ひどく飢餓感に苛まれた彼女の脳内には、もはや他者の選択肢など残されていなかった。自分をこの孤独のどん底から救い出してくれるのは、あの理知的で優しい声を持つ彼しかいない。彼自身がすべての繋がりを断ち切った張本人であることなど露知らず、彼女は乾ききった喉を潤す水を求めるように、自らその美しく恐ろしい蜘蛛の巣へと引き寄せられていく。計算し尽くされた飢餓状態に置かれたことで、彼女の意志は無自覚のうちに、完全に彼の支配下へと落ちていたのである。
四階。満寵の乱雑な汚部屋とは対極に位置する、常に一定の湿度と温度が保たれているような、洗練された空間――荀彧の部屋である。チャイムを鳴らすと、数秒の静かな空白の後、音もなく扉が開かれた。そこに佇んでいたのは、最高級の和紙のように滑らかで、寸分の狂いもなく整った微笑みを浮かべる荀彧だった。
「おや、#name#殿。……どうされましたか? そんなに落ち着かない顔をして」
「荀彧殿……。あの、なんか最近、みんな全然来なくて。静かすぎて、逆に落ち着かなくて……」
「ふふ。それは『平和』に慣れていないだけですよ。……さあ、中へ。ちょうど貴女のために、特別な茶を淹れようと思っていたところです」
荀彧が優雅な仕草で、部屋の奥へと手招きをする。その静かで柔らかな微笑みは、罠に掛かった哀れな獲物を迎え入れる捕食者の、極めて優雅な歓待であった。外部の毒から彼女を守るという大義名分のもと、他の有象無象をすべて排除し、彼女の世界を『自分だけ』で満たすための壮大な包囲網。刺激に飢え、孤独に耐えきれなくなった彼女が、自らの足でこの部屋を訪れ、自分だけを頼りにして縋りついてくる。その瞬間を、彼は冷徹な計算と甘い和三盆の毒を練り上げながら、ずっと待ち焦がれていたのだ。もはや彼女には、この男が注ぐ猛毒のような愛情の庇護下でしか、息をすることすら許されない。その深い黒曜石のような瞳の奥底で、「計画通りに退屈してくれましたね」という、ひどく冷徹で甘い光が揺らいだことに、#name#はまだ気付かずにいた。